ビデオレンタル

小学生のころからビデオレンタルなるものが一般的になったような気がする。

あぁレンタルレコード屋にもよくいったな~。

親に連れていってもらったんだろうけど・・・うちの親って映画好きだったのかな?

いろいろ借りたな~

主にジャッキーチェンの映画多かった気がする。

からのサモハンキンポーやらユンピョウやら。

そもそもそれを仕入れた先はどこだったんだろうと考えると、おそらく親戚の家だったんだと思う。

結構ユン・ピョウも好きだった。サッカーの映画があった。チャンピオン鷹。

何度も見た気がする。

レンタル屋。レンタルなので、返却しなくちゃいけない。

一度手に入れたものは手元に置いておきたくなるのが人間の性?(笑)

たぶんそのころは最先端だった小さいサイズのビデオがあった。

ベータではなく、もっと小さいやつ。

そしてVHSがあった。ということで、ダビングができたわけだ。

そのVHSが壊れて、近くの今でいうホームセンターのようなところに買いに行ったことを憶えている。

最初の塾

4年?5年?くらいから塾にいった。

親にいけと言われたわけではない気がする。

そこは1階に何かの事務所があって、その2階だった気がする。

らせん状の階段があったような。

そこでは、たぶんいろいろな教科を教えてもらったと思うのだけれど、憶えているのは社会の歴史。なぜだろう。その先生がひょろっとしていた記憶もある。

なんとなくそこの匂いが好きだった気がする。

そして、普段大人数で過ごしている自分にとって、人数が少ないその場所は新鮮だった気がする。

ダッシュしてぶつかった

マンションに住んでいた。

群団登校で学校に行っていた。

集合時刻になっても来ない子がいた。

その子の家に呼びに行った。

少し長めの廊下。

私はダッシュした。ダッシュした。ダッシュした。

その子の家は角部屋だった。

その結果、止まり切れずにその子の玄関のドアに頭から激突した。

その後の記憶はない。

でも、それは記憶が飛んだとかではなく、単純に大事にならなかったということだろう。

ずれてるプレゼント

なぜか少しずれていた親のプレゼント。

そのころラジコンがはやってた。

オフロードのやつ。

ブーメランとか。

そういうやつがほしくて、サンタさんにお願いをした。

その結果、来たものは、確かにオフロードだけれど、なぜか6輪のトラック系。

サッカーを始めたからサッカーボールが欲しかった。

買ってきてくれたのだが、なぜか5号のボール。小学生は4号なのに。

しかも普通の白黒がよかったのに、銀と黒・・・・

お正月、ファミコンのソフトが欲しかった。

マクロスのソフト。

しかし、買ってきてくれたのは、ボコスカウォーズというゲーム・・・

知る人ぞ知るゲームだ。

なぜかいつもちょっとずれている(笑)

自分が親になると、わからないでもないけれど、当時の自分はすごく落胆していたと思う。

みんなと一緒がよかったのに・・・

でも、みんなと一緒じゃなくてもなんとか今も生きている。

まぁそんなもの。

サッカー部と練習

冬の部活は5年、6年とサッカー部だった。

キャプテン翼も流行っていたしな~

なかなかボールを浮かしてけれなくて、苦労していた記憶がある。

ポジションはGKだった。ような気もするし、ほかもやっていた記憶もある。

少し離れたところにある小学校に試合をしに行ったことを憶えている。強い小学校があって、あと少しというところで負けてしまった記憶がある。

練習は結構していた。そのころはナイター設備などなく、冬だから、どんどん暗くなるのだけれど、隣にある区役所の明かりでボールが見えなくなるまで練習していたことを憶えている。

リフティングはなかなかうまくならなかった。

ただ、家では一人で壁にボールをあてて、キャッチの練習をしていた。

それがサッカーを始めてスタートしたのか、ドッジボールをうまくなりたくてスタートしたのかは定かではない。

友だちと一緒に練習した記憶もあるが、一人で練習していた記憶のほうが多いかもしれない。

この時のボール、なぜか4号ボールではなく、5号ボールだった。なぜかはまた後日

小5のときや野球部に入っていたが、小6は水泳部に入った。

なぜかは覚えていない。ただ、泳げなかったからなんとか泳げるようになりたかったのかもしれない。

結果、泳げるようになった。特にうまく教えてもらった、という記憶はない。ただひたすら泳いでいるうちに、泳げるようになったのだと記憶している。

質も大事だけれど、量もそれなりに必要だと考えている今を支えている記憶かな。

短期水泳教室

小学生のころ、泳げなかった。

そのため、夏休みに短期水泳教室にいった。

市?県?の施設まで電車に乗っていった。

結局そこでは泳げるようにはならず、終わって、そこまで電車でいっていた記憶だけが残っている。

もしかしたら、学ぶときは山を越えて、というスタイルをささえる記憶なのか?